山形地方裁判所 昭和43年(わ)179号 判決 1974年4月24日
主文
被告人は無罪。
理由
第一公訴事実および罰条
一本件起訴状に記載されている公訴事実は、
「被告人は、山形市立商業高等学校教諭であり、同校山岳部顧問として学校教育の活動であるクラブ活動の指導にあたつていたもので、昭和四二年三月三一日から同年四月六日までの日程で同部クラブ活動の一環として行われた春山合宿訓練に際し、同校二年生鈴木博(当時一七才)、同校一年生伊藤春樹(当時一六才)、同校一年生細谷光喜(当時一七才)および同校一年生長岡秀典(当時一六才)の四名を引卒して山形県西村山郡西川町所在の磐梯朝日国立公園朝日連峰(最高標高海抜約一、八七〇メートル)に登山し、同月二日同連峰狐穴小屋に到着し、天候不良のため同月四日午前七時頃まで同小屋に停滞したところ、同日朝のラジオの天気予報で同日午後から海上山岳方面の天候が荒れ模様になることを聞きながら、同日午前七時頃、右鈴木ら生徒を引卒指導して同小屋を出発して大朝日岳に向かい、途中約4.9キロメートルの行程で竜門山を踏破して同日午前一一時頃同連峰御坪付近に差しかかつたが、同所から西朝日岳・中岳を経て大朝日岳に至る行程約4.7キロメートルの進路は、海抜約一、八〇〇メートルの高所で、日本海方面から吹きつける強風をさえぎるもののない稜線伝いの急峻部を持つ山道であり、途中に適当な避難設備もないうえ、右狐穴小屋出発後同日午前一〇時頃より同連峰竜門山付近で早くも雨模様となり、同所より約0.9キロメートル進んだ右御坪付近では降雨・風勢ともに激しさを加えて次第に荒れ模様となつたので、天候の激変しやすい春先の同連峰においては、雨が吹雪に変る等さらに天候の悪化することが容易に予想され、かつこのような地形・気象状況のもとに、登山経験不十分で肉体的、精神的に未成熟な右鈴木ら生徒を引卒して前進を強行するときは、指導者として右鈴木ら生徒の掌握も著しく困難となるは勿論、天候・地形状況等の悪条件による急激な気温低下や体力消耗のため進退不能となり、ひいては寒気と疲労による凍死等不測の事態の発生も容易に予測されうる状態にあつたのであるから、このような場合生徒らを引卒して登山訓練の指導にあたる山岳部顧問としては、その職務上、直ちに前進を中止して前記竜門山に引き返し、同所より避難路をたどつて最寄りの日暮沢小屋に避難するか、あるいは風向きなどを顧慮して適当な場所に不時露営して天候の回復を待つ等臨機の措置をとり、万一前進を続ける場合も、生徒らの隊列が離散することのない様に常時同人らの動静に注意を払うとともに、生徒らの体調を適確に観察把握し、状況に応じて摂食・採暖・休養の方法をとる等万全の措置を講じて、予測される事故発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、自己の登山経験と生徒らの体力を過信するの余り、漫然生徒らを引卒してそのまま大朝日岳方面に向かつて前進を強行したうえ、
(一) 同日正午頃、右御坪付近より約1.6キロメートル余前進した同連峰西朝日岳指導標付近に到着したころは、みぞれまじりの雨が吹雪に変つてコースを見失う程の荒天となり、前記生徒中特に伊藤春樹が寒気と疲労により著しく体力を消耗して次第に無口となり、自力で輪かんじきをつけることも取りはずすことも困難となつたうえ、歩行中転倒しても直ちに起きあがれない等全く異常と認められる行動を示しそのまま前進を続けるときは疲労のため凍死する等最悪の事態発生が容易に予測されうる状態にあつたから、自ら直ちに右伊藤の健康状態を確かめたうえ、全員不時露営して休養し、採暖・摂食等の応急措置を必要としたのに拘らず、そのまま強いて前進を続けさせ、同日午後一時三〇分頃、西朝日岳指導標付近から約1.5キロメートルの同連峰中岳上り口付近の鞍部に到着する頃には、同人が更に体力を消耗し、全く歩行困難となつて、被告人・長岡および細谷の集団より一〇〇メートル余も遅れ、鈴木の助けを受けながら間もなく歩行不能となつて停止したのにこれを顧みず、かつ鈴木より即刻伊藤の右危険状態の報告を受けながら、自ら引き返して伊藤の容態を確かめたうえ同人に対し救護のための必要な措置をとることなく、同人らより先行した中岳上り口より約六〇メートル前進した地点で、細谷および長岡と不時露営し、漫然右伊藤をそのまま放置したため、伊藤春樹をして同日午後六時頃、同連峰中岳上り口付近において寒気と疲労のため凍死するに至らしめ、
(二) 前記のごとく、同夜は吹雪の中で不時露営し、翌五日午前六時頃右伊藤の死亡を確認したのち、細谷・長岡および鈴木を伴い、さらに大朝日岳に登頂するため同所を出発したが、同地点より中岳指導標付近に至るコースは、約一〇〇メートルにわたる最も急峻な登り坂であるうえ、右生徒らが前日までの悪天候下の強行軍に加え、右伊藤の前記死亡事故による衝撃のため肉体的精神的に極度に疲労しており、前日右伊藤が遭難したことを思い合わせ、このまま前進を強行すれば、寒気と疲労のため生存した三名の生徒についても、引き続き同様の事故が発生することも容易に予想されうる状態にあつたのに拘らず、行進中は生徒らと離れず常時同人らの健康状態を観察し、その体調に応じ、臨機休養・採暖・摂食をさせ、服装・装備の調整をする等の措置をとることなく、自ら先行したまま、追尾した細谷・長岡が疲労のため次第に歩行困難となつて後方に取り残されていたのに、同人らの動静を全く顧慮することなく漫然前進を続けたため、細谷光喜・長岡秀典の両名をして寒気と疲労のため追従不能に陥らしめ、よつて間もなく前記出発地点より約一五〇メートル進んだ同連峰中岳指導標付近において、右両名をして凍死するに至らしめたものである」。
というのである。
二、罰条
刑法二一一条前段(業務上過失致死)
三、なお、検察官は右公訴事実につき左記趣旨の釈明をした。
(一) 被告人が本件につき業務性を有するのは、被告人が高等学校の教諭であり、しかも山岳部顧問として学校教育の特別教育活動である同部クラブ活動の指導にあたつていたことに基づくものである。
(二) 本件における被告人の具体的注意義務は、1朝日連峰御坪付近においては(1)直ちに前進を中止して日暮沢小屋に避難する義務、(2)適当な場所に不時露営する義務、(3)万一前進を続ける場合も状況に応じて臨機休養・摂食・採暖等の措置をとる義務、2公訴事実(一)記載の日時場所においては、自ら直ちに伊藤の健康状態を確かめたうえ全員不時露営して休養し、採暖摂食などの措置をなし、伊藤を顧み伊藤の容態を確かめたうえ、同人に対し救護のための必要な措置をなす義務、3公訴事実(二)記載の日時場所においては、行進中生徒らと離れず常時同人らの健康状態を観察し、その体調に応じて臨機休養・採暖・摂食させ、服装・装備の調整をするなどの措置をなす義務である。なお、日暮沢小屋避難の義務は、御坪付近経過後はこれを主張しない。
(三) 右各義務は互いに競合し、訴因は各被害者につき各一個である。
(四) 右各義務の履行により結果を回避出来た最終の時点および被告人の所在地点は、被害者伊藤については昭和四二年四月四日午後一時三〇分頃中岳上り口から約六〇メートル前進した地点付近、被害者細谷・長岡については、同月五日午前七時頃から午前九時頃までの間で不時露営した中岳上り口より約六〇メートル前進した地点から大朝日小屋に至る間、特に中岳指導標付近である。
(五) 公訴事実(二)記載の細谷・長岡の死亡時間は、同月五日午前九時頃から同日午後一〇時頃までの間である。
第二公訴棄却の申立に対する当裁判所の判断
一弁護人は、本件公訴事実に記載された被告人の注意義務は、両立しえない矛盾したものであるから、訴因としての定型性を欠いているばかりか、裁判官に事件につき予断を生ぜしめる虞のある余事記載がされているというべきであり、また右各注意義務の内容およびその前提事実は抽象的にすぎる部分があるので、結局本件公訴は刑事訴訟法二五六条に定める適法要件を欠くものとして棄却さるべきである旨主張する。
二よつて検討するに、本件起訴状における公訴事実の記載によつて明示されている訴因そのものは、検察官の当公判廷における釈明によつても、なおその内容、および訴因相互間の関係の両者において、多少明確性を欠く憾みがないではないが、本件起訴状における公訴事実の記載によつて明らかにされている事実関係、および一般に被告人の過失責任の存否を判断するにはまず現実に生じた法益侵害の結果を起点として因果の連鎖を遡り、被告人の作為または不作為によつて因果の流れを変え得たと目される最初の分岐点において被告人の注意義務違反行為があつたかを検討し、これが否定された後はじめて順次それ以前の段階に遡つて同様の検討を繰り返すことが必要であり、かつこれを以て足りると解するのが相当であること等を、虚心に総合勘案すれば、
(一)伊藤春樹の関係では
1、中岳上り口付近の鞍部で自ら引き返して伊藤の容態を確かめたうえ、伊藤に対し救護のため必要な措置をとる義務があるのに漫然これを放置したこと、
2、西朝日岳指導標付近の伊藤の転倒した地点では、伊藤の健康状態を確かめて不時露営し、採暖摂食等の措置をとる義務があるのに前進を続けたこと、
3、御坪付近で適当な場所に不時露営して摂食採暖等臨機の措置をとる義務があるのに前進を続けたこと、
4、御坪付近で直ちに前進を中止して日暮沢小屋に避難する義務があるのに前進を続けたこと、
の各訴因が1・2・3はその順で予備的訴因として、3と4は択一的訴因として、それぞれ存在し、
(三) 細谷光喜・長岡秀典の関係では
1 中岳指導標付近で行進中、生徒らと離れず常時同人らの健康状態を観察し、その体調に応じ臨機休養採暖摂食をさせ、服装・装備の調整をする等の措置をとる義務があるのに漫然前進を続けたこと、
2、御坪付近で適当な場所に不時露営して摂食採暖等臨機の措置をとる義務があるのに前進を続けたこと、
3、御坪付近で直ちに前進を中止して日暮沢小屋に避難する義務があるのに前進を続けたこと、
の各訴因が、1・2はその順序で予備的訴因として、2と3は択一的訴因として、それぞれ存在する
と解するのが相当であり、本件各訴因をこのように理解すると、その特定性に欠けるところがあつたり、また予断を生ぜしめる虞のある余事記載の部分は存在しないと認めるのが相当である。もつとも、本件各訴因を前記のように理解すると、その個数、およびその相互関係において、検察官の主張と当裁判所の見解との間に相違点があることになる。しかしながら、この相違点は、もつぱら検察官と当裁判所との法律上の見解の違いから生じたものであつて、検察官の主張と異なる事実に基づいて、本件各訴因を構成しなおしたために生じたものではないから、このことを理由に、本件各訴因がその特定性において欠けるところがあるということもできない。したがつて、本件公訴は棄却さるべきであると主張する弁護人の主張はこれを採用しない。
第三山形市立商業高等学校山岳部の昭和四二年三月三一日から同年六月四日までの日程で行われた山形県西村山郡西川町所在磐梯朝日国立公園朝日連峰(最高標高約一、八七〇メートル)登山(以下本件春山合宿登山ということがある。)における被告人らの登山行動の概要
<証拠>を総合すれば、本件遭難に関する経緯は概ね次のとおりであることが認められる。
一被告人の経歴等
被告人は、昭和二三年三月に東京都豊島区にある私立巣鴨経済専門学校を卒業後、同二五年五月頃から山形市立商業高等学校に簿記・会計等の教科を受け持つ教師として勤務し、その頃から本件遭難に至るまでの間、毎年同校山岳部顧問として、同校山岳部が主催あるいは同校生徒である山岳部部員が参加する新入生歓迎登山、高体連村山地区登山競技大会、山形県高等学校総合体育大会、夏山合宿登山(二回)、国民総合体育大会山岳部門山形県予選、冬山合宿登山、春山合宿登山等のほとんどに部員を指導するため同行して参加したほか、個人的にも登山を好み、夏山・冬春山を通じ、山形県内にある蔵王連峰、飯豊連峰、月山、島海山、吾妻連峰、朝日連峰等は勿論、県外にある白山、谷川岳等にも登り、その回数は部員に同行して行つたものも含め、本件遭難に至るまで合計約七〇ないし八〇回にも及んでいる。
二本件春山合宿登山に参加した部員のうち、同四〇年四月に同校に入学した鈴木博は、同四一年三月になつてから同校山岳部に入部し、その後本件遭難に至るまでの間、同年夏の飯豊連峰および朝日連峰への各合宿登山、同年冬の蔵王連峰への合宿登山、各種登山競技大会(三回)に参加する等の経験を有し、本件春山合宿登山当時は、同登山に参加した部員四人のうちで最も経験を積んだ同校山岳部長として被告人の信頼を受け、同登山におけるリーダーの役割を果したものである。
同四一年四月に入学した伊藤春樹・細谷光喜・長岡秀典のうち、伊藤・細谷は入学と同時に、長岡は同四二年一月頃になつてから、それぞれ同校山岳部に入部し、伊藤は同四一年夏の飯豊連峰への、同年冬の蔵王連峰への各合宿登山に、細谷は同年夏の朝日連峰への同年蔵王連峰への各合宿登山等に参加する等の経験を有し、右細谷は右合宿登山を通じ、その登山行動における判断力・耐久力につき、被告人から相当の信頼を受けるほどであつたが、前記のように遅く入部した長岡は、正式の同校山岳部員としての行事参加は、本件春山合宿登山が初めてで、その登山能力につき被告人も多少の懸念を抱いていたほどであつた。
三本件春山合宿登山の計画等
同四一年冬の蔵王連峰での合宿登山を終えたのち、同校山岳部員達は、同四〇年および同四一年の春山合宿が朝日連峰で行われたこともあつて、同四二年の春山合宿登山も六泊七日の予定で同連峰で行う旨の決意を固め、同年二月頃には同部員たる鈴木が同じ部員の細谷・伊藤の協力の下に本件春山合宿登山の計画表を被告人の指導助言を受けながらこれを作成し、更に同年三月五日頃には顧問たる被告人を通じて同高等学校長に本件春山合宿登山についての合宿届を提出してその承認を受け、その間、登山用具の点検をしたり、春の朝日連峰の予備知識を得る等して着々その準備を進めていたところ、出発三日前の同月二一日頃になつてリーダー鈴木の血圧が高くなり、しかも細谷・長岡が同月二九日、三〇日の追試験を受けなければならなくなり、更に前記計画表作成当時は参加を予定していた同校山岳部員鈴木功一・布施俊治が病気等のため参加できなくなつたこともあつて、結局本件春山合宿登山は、同月三一日から同年四月六日までの間、鈴木・伊藤・細谷・長岡の部員四名および指導のため同行した被告人の合計五名でこれを行うこととなつた。そして出発日の前日までに、被告人はテレビ等で長期の天気予報を聞き、部員らは荷物を各人に具体的に分配する等して、本件春山合宿登山の準備を完了した。
四出発から狐穴小屋
同年三月三一日細谷を除く部員三名と被告人は、国鉄山形駅発午前六時八分の左沢線列車に乗車して同駅を出発し、同線羽前高松駅で山形交通三山線に乗り換え、同日午前七時三〇分頃同線間沢駅に到着し、同駅で待ち合わせていた細谷と合流し、同所から一緒に同交通のバスに乗車して午前八時三〇分頃バス停留所「月山沢」で下車し、そこから徒歩で同県西村山郡西川町大井沢中村所在の江戸屋旅館に向かい、約一時間四〇分位歩いて同日午前一一時三五分頃同旅館に到着し、同日は同旅館で過ごし宿泊した。なお一行の背負つていたキスリングの重さは、右出発当時、部員らがいずれも約三〇キログラム位、被告人が約二五キログラム位であつた。
翌四月一日一行は、午前七時頃、雨の多少降る中を同旅館から出発し、同連峰バカ平・焼峰・竜ケ岳・粟畑等を経て、同日午後三時三〇分頃天狗小屋に到着し、同日は同小屋に一泊した。
翌四月二日一行は、午前八時頃同小屋を出発し、同連峰天狗角力取山・オバラメキ・高松峰等を経て、同日午後四時頃狐穴小屋に到着した。もつとも、長岡は疲労のため、被告人・伊藤・細谷と行動をともにできなくなり、付添つていた鈴木とともに他の三人よりも約三〇分遅れて右狐穴小屋に到着した。そして、同日は同小屋に寝た。
翌四月三日一行は大朝日小屋に向かう予定であつたが、早朝から大粒の雨が音をたてて降り強風が吹いていたため、同日は出発を見合わせることとし、小屋の掃除等をしたりして右狐穴小屋に停滞した。
五狐穴小屋出発から竜門山
翌四月四日一行は午前四時頃起床して朝食等をとつたのち、午前六時頃、被告人所携のトランジスターラジオで天気予報を聞いたところ、前夜の天気予報とほぼ同じく「今日は南西の風、午前中は曇りで一時雨が降りますが、午後には北西の風が強くなり、時々雨となり、気温も下がつてくるでしよう。……なお、今日午後から海上山岳方面は荒れ模様になり突風の吹くおそれがありますから御注意下さい……。」という内容であつた。しかし被告人は、当時同小屋付近は高曇りで見通しはよく、風も吹いておらず、又従前からの経験で午後一時頃までには大朝日小屋に十分着けるはずであるので、このまま右狐穴小屋を出発しても、仮に途中で風雨・風雪にあうとすれば大朝日小屋に着く少し前で、その間わずかの距離にすぎないから、出発しても大丈夫と判断し、部員らとも相談のうえ、同日午前七時頃部員らとともに同小屋を出発した。その際被告人は、雪質は固いと思つて当初全員にアイゼンをつけさせたが、少し歩くうち雪質が意外に柔かかつたので、すぐ輪かんじき(以下単に輪かんという。)につけ換えさせたところ、従前から輪かんのつけ方が上手でなかつた伊藤は、この時も上手につけることが出来ず、ために被告人が伊藤のつけた輪かんをつけ直してやる等して出発し、その後三方境に至つて全員輪かんを自分ではずし、そこから同連峰北寒江山・寒江山・南寒江山・百畝畑等を通つて、同日午前一〇時頃竜門山に到着した。その間は、大した危険な場所でもないので、部員を代る代る先頭に立て、被告人は一番最後を、一列になつて歩き、そして五分ないし七分位づつ七回位休憩し、その都度乾葡萄、氷砂糖等の中間食をとつて進んできた。部員らは皆元気であつた。
六竜門山から西朝日岳
竜門山で一行は、パン等で昼食をとつたり、周囲の景色を眺めたりして休憩し、その間被告人は部員らに対し避難路としての同所から日暮沢小屋に下るコース等の話をしたりしたが、そうしているうち雨がパラパラ降り出してきたので、当初予定していた休憩時間三〇分を二〇分に切り上げ、同日午前一〇時二〇分頃細谷・長岡・伊藤・鈴木・被告人の順で同所を出発した。そうした右休憩地点から約二〇〇ないし三〇〇メートル位進んだところで雨のため西朝日岳方面が見えなくなり、更に進んだ御坪付近では、雨は次第に大降りになり、風も強くなつてきたので、同所で全員ポンチョを着用し、ポンチョの帽子を頭にかぶつて、更に進行を続けた。なお、西朝日岳指導標に至る手前で休憩した際、伊藤に対し鈴木が氷砂糖を配れと命じたのに、伊藤が黙つていて配ろうとせず、鈴木が再度大声で命じてはじめて配つたというようなことがあつた。その頃から雨は次第にみぞれに変り、一行は、途中四回位休憩しながら、同日正午頃ようやく西朝日岳指導標に到着した。
なおその間、雨からみぞれという天候の変化に部員らが急ぎ足になつたため被告人が同人らから遅れ、ために部員らは遅れている被告人を立ち止まつて待つということが何度かあつた。
七西朝日岳指導標から中岳上り口付近の鞍部
一行が西朝日岳指導標に着くころは、みぞれから雪に変つて吹く風も強く、吹雪になつてきており、また同指導標付近は、積雪のため平らになつていて、稜線が明確でなかつたので、一行は中岳に行くコースを容易に見つけることが出来なかつた。そこで被告人は、部員らに対し輪かんをつけておくよう指示し、自己のキスリングを同所に置いたうえ、吹雪の中を単身コースの調査に出かけたが確認できず、途中一度地図を見るため部員らの居る所に戻つて、再びコースの調査に出かけ、約二〇ないし三〇分かかつて、ようやく中岳に行くコースを見つけて戻つてきた。その間部員らは、被告人の指示に従つてまず輪かんをつけようとしたところ、伊藤を除く他の部員三人はすぐつけたものの、伊藤は「つけられない」旨訴えるのでリーダーの鈴木が代わつてこれをつけてやり、次いでしばらく何もしないで待つていると厳しい寒さを感じてきたため、それを防ごうと、伊藤を除く他の部員三人が誰とはなしに声を出しながら肩を組んで足踏みを始めたが、伊藤は最初ぼんやりと突つ立つてこれを見ているだけであつたので、鈴木が幾度かすすめた結果、伊藤も足踏みに加わるようになり部員全員は、被告人が中岳に行くコースを見つけて戻つてくるまで足踏みを続けていた。
被告人がコースを見つけて部員らの所へ戻つてくると、部員らは皆元気そうであり、誰も体の具合が悪いなどというものもなかつたので、すぐキスリングを背負い、「さあ出発だ」と声をかけ、天候は、いぜん吹雪で、視界も大分きかなくなつていたので、被告人が先頭になつて吹雪の中を大朝日小屋目指して、中岳の方向に向かつて歩き出し、細谷・長岡・伊藤・鈴木がこの順で被告人に続いた。同所から約一五〇メートル位進んだところ、夏道が露出していて輪かんの必要がなくなつたので、同所において一行は被告人の指示により全員輪かんをはずしたが、伊藤は被告人の右指示にもかかわらすぐ輪かんをはずさず黙つて立つていたので、被告人が「どうしたんだ、早くはずせ」と強い調子で促すと、伊藤は鈴木に対し「はずせないのよ」と訴えたので、鈴木は前に輪かんをつけてやつたときと同じく伊藤に代わつてこれをはずしてやつた。鈴木から輪かんをはずしてもらつた伊藤は、他の者が手に輪かんを持つたにも拘らず、自己のキスリングを背中からおろして、そのポケツトのバンドをはずし、そこに右輪かんを結びつけた。
それからまた同じような隊列で進み始め、約四〇メートルも歩いたところ、勾配の急な下り坂の雪のない岩肌で、伊藤がキスリングを背負つたまま約三ないし四メートル滑り落ちて、尻もちをつき、その地点で立ち上がろうとしなかつたので、被告人が伊藤に近寄り、「どうしたんだ」と強い口調で気合をかけたが、伊藤は直ちに立ち上がろうとせず、一ないし二呼吸してから起き上がり、被告人に「腰が痛いんだ」等と訴えた。
それから一行は、また吹雪の中をゆつくり中岳に向かつて進み、途中一回五分間もキスリングを背負つたまま休憩して、乾葡萄、氷砂糖等を食べ、このとき伊藤も中間食を食べた。しかし、その後、伊藤の歩みは特に遅くなり、時々ふらふらと体がゆれて、体のバランスが崩れることもあり、伊藤およびその後を歩く鈴木のグループは、前を行く被告人・細谷・長岡のグループから次第に遅れてゆき、伊藤は後にいる鈴木から「頑張れ」等と元気づけられながら歩くほどになつた。
八中岳上り口付近の鞍部での状況
被告人・細谷・長岡のグループは同日午後三時頃指導標から約1.5キロメートルの中岳上り口付近の鞍部に到着し、中岳斜面を少し登りかけたが、その頃には、伊藤・鈴木のグループは前を行く被告人・細谷・長岡のグループから約一〇〇メートル位も遅れ、断続的に吹いてくる吹雪の切れ目から、これに気づいた被告人達は、立ち止まつて伊藤・鈴木を待つことにした。しかし、長岡が「待つていると寒いな」というので、被告人は長岡のキスリングからツエルトザックを取り出し、これを一緒に被つて伊藤・鈴木が追いつくのを待つことにした。
一方、伊藤・鈴木は歩行を続け、被告人達の所へ約六〇メートル(被告人および鈴木の感覚では約二〇メートル)位の所まで近づいたところ、伊藤が急に立ち止まり動こうとしなくなつたので、鈴木が「どうした」と尋ねると伊藤は「鈴木さん、だめだ」等と弱音を吐き、更に何か言おうとしても言葉にならない状況になつた。そこで鈴木は、疲労等のため伊藤は動こうとしないし、又被告人達はツエルトザックを被つていて不時露営の態勢に入つたように見えたので、伊藤の右状況を被告人に報告すべく、伊藤の肩を押してかがませ、同人のキスリングをおろしてやつたうえ、自己のキスリングからグランドシートとツエルトザックを取り出し、グランドシートを敷いてその上にツエルトザックを置き、自分一人では入れない伊藤を無理にツエルトザックの中に入れて、すぐ中岳上り斜面にツエルトザックを張つて休憩している被告人達の所へ向かつた。
他方被告人達はツエルトザック内で、被告人において細谷に対し、同人が一人ででも大朝日小屋まで行きたいと言うのをなだめたり、その休憩地点から同小屋に行くコースについて、「ここから七、八〇メートル登ると中岳指導標がある。その指導標から山を高巻きしていくと稜線に出てブツシュが続いているから、これに沿つて進むと金玉水に出る。そこから大朝日小屋までは道が続いている」等と説明しながら、伊藤・鈴木が追いついてくるのを待つていたところ、ツエルトザックの裾の方からちよつと顔を出して同人らの動静を見た被告人の目に、約六〇メートル(その時の感じでは約二〇メートル)の近くまで来て伊藤・鈴木が立ち止まつた後、鈴木が被告人に無断でツエルトザック等を出し、伊藤と一緒に被つたのが見えたので、被告人が鈴木・伊藤はどうしたのだろうと思つていると、まもなく鈴木がやつて来て被告人達のツエルトザックの中に顔を入れ、被告人に対し「伊藤がバテて動けなくなつた」と報告をした。これを聞いた被告人は、すぐ伊藤は単に疲れたにすぎず、少し休憩すればまもなく回復し、同人が回復したならば大朝日小屋に向け再び出発しようと考え、鈴木に対し「動くな」と言葉短かに指示を与え、これを受けた鈴木も当時伊藤は単に疲れたにすぎないと思つていたためそれ以上何も言わずに、そのまま伊藤の居る所に戻つてきた。すると鈴木は、伊藤がツエルトザックに入つたまま元の位置から三ないし四メートル位西朝日岳寄りに移動していた。そこで鈴木もその中に入ると、伊藤は、中で横になつて眠ような状態で目をつぶつているのを発見したので、そのまま伊藤を眠らせると同人は死んでしまうと直感し、「伊藤どうした」等と幾度も大声で呼んだが、同人は少し声を出そうとしたにすぎなかつた。そこで鈴木は、伊藤を眠らせないため懸命に同人の頬を平手で殴つたところ、同人の口から血が出てきたので驚いて殴るのを止め、次いで同人の大腿部をつねる等し、更にその間、同人にカリン糖を食べさせようと同人の口に無理にそれを入れてやる等して、伊藤の死を防ぐため必死の努力をしたが、最初鈴木がつねると足を動かす等の反応を示していた伊藤も、次第にそれを示さなくなり、口に入れられたカリン糖も力なく落とすという状態を呈し、かくして伊藤は同日午後五時頃には全く反応を示さなくなり、同日午後六時ないし七時頃、寒さと疲労のため凍死するに至つた。そして鈴木は、伊藤が全く反応を示さなくなつた午後五時頃には、同人は死亡したと思い込み、そのまま同夜はツエルトザックの中で、シュラーフザック(寝袋)に入らず、腰を落として膝を折り前屈みになつた状態で坐つたまま一睡もせずに過ごした。
鈴木が戻つたのち被告人達は、鈴木が伊藤は大丈夫歩けるようになつたと連絡してくるのを待つていたが、しばらくしても何の連絡もなく、しかも吹雪が相変らず続いていたので、それまでツエルトザックを被つて休憩していた地点でそのまま不時露営する決意を固め、鈴木はリーダーだから上手にやるだろうと考えて鈴木・伊藤には何の連絡もせず、それぞれシュラーフザックに入る等の防寒措置を講じてそのまま不時露営の態勢に入り、同夜を過ごしたが、被告人は一晩中時々細谷・長岡の名を呼び、同人らを元気づけていた。
九中岳上り口付近の鞍部から大朝日小屋
翌四月五日は夜明け近くになつて風雪がおさまり、被告人・細谷・長岡が午前五時過頃起床したところ、下の不時露営地点で鈴木が手を振り、伊藤が死亡した旨叫んでいるのを細谷が聞いて被告人に伝え、驚いた被告人と細谷の二人が急いで鈴木の所に行き、被告人が同所で伊藤の肩辺を二ないし三回叩いて、同人が死んだかどうか確かめると何の反応も示さなかつたので、ここにおいて被告人は伊藤が死んだことを確知し、愕然たる気持になつた。しかし被告人は自分が動揺した様子をみせると他の部員らに悪影響を与えると思い、同日午前六時頃、鈴木に対しては疲労が激しいので、キスリングを背負わせないで、ピッケルだけを持たせ、細谷・長岡にはキスリングを背負わせようとしたが、その際、細谷のキスリングの背中の肩掛けがリングの儘外れてしまい、背負えないので、必要なものをサブザックに入れて持つけゆけと指示したところ、細谷が何とか取り繕つて持つて行くと言うので被告人はそれを了承し、朝食もとらないまま、被告人が先頭になつて出発した。そして被告人ら一行は、同所から中岳指導標に至る約一〇〇メートルの急斜面をキツクステップをしながら約四〇分位かかつて登り、同指導標付近に至つたところ、細谷・長岡が被告人に対し「腹が空いたので飯を食べて行つてよいか」旨申し出たため、被告人は「食事終わつたらついて来い、カッティングしておくからすぐついて来い」といつて、被告人・鈴木は細谷・長岡と別れ、同日午前七時ないし八時頃、大朝日小屋に到着した。
同小屋到着後被告人は、そのキスリング内に携行してきた固形燃料に点火して暖をとり、その間鈴木とともに練りミルク・チーズ・乾パン等の食事をして細谷・長岡が列着するのを待つたが、一時間経つても二時間経つても来ないので、被告人はアイゼンとピッケルだけで単身捜索に向かい、金玉水・中岳中腹・銀玉水一帯を所携の呼子を吹き、細谷・長岡の名前を呼び辺りを見廻わしながら探し歩いたが見つからず、その頃から風雪が激しくなり、また被告人自身も疲労が大きくなり、体力の限界を感じてきたので、やむをえず捜索を中止して、同日正午頃歯をガチガチさせ、両手・鼻・頬等に凍傷を負つた状態で大朝日小屋に戻り、同日はそのまま鈴木とともに伊藤が死んだ経過等を話しながら鈴木と体を寄せ合うようにして同小屋に寝た。
なお細谷・長岡は、同日午前九時頃から午後三時頃までの間、中岳指導標付近で凍死した。
一〇大朝日小屋から江戸屋旅館
翌四月六日被告人および鈴木は午前七時過ぎ頃、細谷・長岡の捜索のため同小屋を出発し、最初根子川に至る付近や中岳中腹を捜したが発見できなかつたため、捜索を根本的にやり直すべく被告人らが通つてきたコースを戻つて捜索したところ、中岳指導標からほぼ大朝日小屋に至る登山道沿いの約一〇七メートルの地点に長岡の、そこから約五七メートル中岳指導標寄りの地点に細谷の遺体を発見した。
そこで被告人・鈴木は、遭難の事実を一刻も早く遺族等に知らせ救助を求めようと思い、遺体をそのままにしてすぐ大朝日小屋に戻つて大急ぎで食事をし、同日正午頃同小屋を出発し、銀玉水・小朝日岳・古寺山・花ノ木峰を経て古寺鉱泉に下山しようとしたところ、花ノ木峰付近で道を間違い、同峰から竜門滝・日暮沢小屋に出てしまい、同日午後八時二〇分頃、ようやく前記江戸屋旅館に到着し、そこで本件遭難の事実が世間に公表されることになつた。
第四業務性の有無について
一刑法二一一条前段にいう「業務」とは、人が社会生活上の地位に基づき、他人の生命身体等に危害を加えるおそれのある行為を、反覆継続の意思で行うものをいう(最判昭和三三年四月一八日刑集一二巻六号一〇九〇頁参照)と解するを相当とするところ、弁護人は本件遭難に際しての被告人の行為は、右業務性を有しない旨主張するので、右要件につき以下個別的に検討することとする。
二社会生活上の地位に基づくこと
(一) <証拠>を総合すると、本件春山合宿登山を行つた山形市立商業高等学校山岳部は、同校生徒で組織する生徒自治会の運動部に属する団体で、その運営は生徒の自主性に任され、その活動に要する経費も、同校生徒の父兄から集められた生徒会費で賄われているが、右山岳部を含む生徒自治会の運営は全て学校当局の指導監督を受け、各部には顧問教師が必ず付けられ、また部活動の時間も夏は午後六時半まで、冬は午後五時半までと定められ、更に部として競技大会に出場したり合宿したりする際は、顧問教師の同意を得たうえ、書面で学校長の承認を受けることになつていること、被告人は昭和二六年頃より本件遭難に至るまで毎年右山岳部の顧問となつていたが、その就任は、実質上は被告人の希望に基づくものの、法形式上は職員会議の諮問を経た学校長の委嘱又は業務命令に基づくものであつたこと、同校においては、顧問教師が部活動のため勤務時間を超えて生徒を指導しても、いわゆる超過勤務の取扱いは受けず、また右部活動のため部員に同行して旅行したり宿泊した場合も公務出張の取り扱いは受けないが、右旅行・宿泊に要した費用は、生徒の父兄等から徴収した教育後援会費から支給されていたこと、その支給手続は旅行命令簿に捺印するという公務出張の形を借りる場合と、教師から単に教育後援会長宛に旅費請求書という書面を提出させてなされる場合とがあり、本件春山合宿登山の際も顧問教師たる被告人に右旅費請求書提出の形で右支給がなされたこと、本件春山合宿登山のような部活動は、社会的にも学校教育ないしそれに類似するものとして受けとられていること、被告人は本件春山合宿登山に至るまでの間、数多くの登山経歴を有し、その技量経験は、右合宿登山当時、山形県山岳連盟の常任理事等の地位にあつたことからも明らかなように、自他共に許すほどのものであり、同行する部員およびその父兄に「長沼先生と一緒なら」という安心感を起こさせるほど右山岳部の文字通り中心的存在であつたことが認められる。
(二) 以上の事実に基づき、本件春山合宿登山における被告人の行動が、社会生活上の地位に基づくものであるかどうかを考えるに、勤務時間等の教師の労働条件、部活動に要する資金の捻出先等を考慮すると、本件春山合宿登山が高等学校学習指導要領(昭和三五年一〇月一五日付文部省告示第九四号)にいう特別教育活動としてのクラブ活動に厳密な意味で該当するかどうか疑わしいが、前記のように本件春山登山は、教師たる被告人の勤務先たる山形市立商業高等学校の教育活動と密接な関係を有し、社会的にもそのような評価を受けていること、被告人に支給される本件春山合宿登山の旅費等は、公務出張という形を借りる場合と、それよりも簡易な形をとる場合の二通りがあるものの、同校の父兄等から集められた準公費的性格を有する教育後援会費で賄われていること、および被告人は長年同校岳部の顧問をつとめ、被告人と一緒に登山する部員およびその父兄をして、被告人と一緒ならという信頼感を抱かせていたこと等に鑑みると、本件春山合宿登山は、被告人が厳密な意味の教師という社会生活上の地位つまり教師の職務そのものとしてではないものの、教師の職務と密接な関係にある特殊な社会生活上の地位に基づき行われたと認めるのが相当である。
三他人の生命身体等に危害を加えるおそれのある行為
(一) <証拠>を総合すれば、本件春山合宿登山は、豊富な登山経験および優れた登山技術を有する被告人が、山形市立商業高等学校山岳部顧問という同校教師の職務と密接な関係にある特殊な社会生活上の地位に基づき、同校山岳部員として、内三名は同四一年三月ないし四月からの、残りの一名は同四二年一月頃からの経験しか有しない生徒四名と同行して、同年三月三一日から同年四月六日にかけて六泊七日の予定でこれを行つたこと、同合宿登山の行われた磐梯朝日国立公園朝日連峰は、最高標高約一八七〇メートルを有する東北地方有数の深山地帯で、同登山の行われた三月下旬から四月上旬にかけては、多量の残雪がある登山コースの至る所に、一歩踏み誤まるとただちにその生命身体が危険に陥る雪屁・クレバス・ナイフリッジ等の危険箇所が数多く存在し、しかも右三月下旬から四月上旬にかけては、春とはいうものの気候が不安定なため、一瞬のうちに吹雪の吹きすさぶ厳冬期に変容することがあるものであることが認められる。
(二) ところで、他人の生命身体等に危害を加えるおそれのある行為とは、その者の行為が直接危険を作り出す性質のものである場合のほか、その者が危険を生じやすい生活関係において予想される危険の発生を防止することを期待される地位においてある仕事をしている場合もまた包含されると解するを相当とするところ、本件春山合宿登山において被告人が部員四名と同行した行為は、それ自体において直接危険を作り出す性質のものではないが、前記(一)のように本件春山合宿登山は、雪崩・寒気・転落等により遭難する危険性が極めて大きい生活関係であり(登山というスポーツは危険と絶えず対峙しながら自己の体力および知力を使い尽すことにその本質がある。)、また被告人は豊富な登山経験および優れた登山技術を有し、しかも本件春山合宿登山を同校教師の職務と密接な関係にある特殊な社会生活上の地位に基づきこれを行つたこと、高校生たる部員四名は成人に近い体力および判断能力はこれを有するものの、その総合した能力、登山経験、登山技術等においては必ずしも十分でないこと等に照らし、被告人は本件春山合宿登山に際し、右部員らを適切に指導して、場合によればその予想される危険からこれを保護すべき立場にあつたと認めるのが相当であり、結局被告人は、本件春山合宿登山に際し、他人の生命身体等に危害を加えるおそれのある行為を行つていたというべきである。
四反覆継続の意思
前記三(一)の各証拠によれば、被告人は同二五年五月頃から同校に教員として勤務し、同二六年から本件遭難に至るまでの間、毎年継続して同校山岳部顧問となり、その間毎年同部部員が出場する各種登山競技大会や、同部の行事として行われる合宿登山は、ほとんどその中心となつて生徒を同行指導し、同四〇年および同四一年の同部春山合宿登山には、本件遭難場所たる朝日連峰にその場を求めていたことが認められるので、本件春山合宿登山の同行指導も、被告人が反覆継続の意思でこれを行つたと認めるのが相当である。
五以上を総合すると、被告人は教師の職務と密接な関係にある特殊な社会生活上の地位に基づき、積雪期登山に部員と同行するという他人の生命身体等に危害を加えるおそれのある行為を、反覆継続の意思でこれを行なつたということに帰着し、結局被告人は、本件春山合宿登山を刑法二一一条前段にいう業務としてこれを行なつたと認めるのが相当である。
第五被告人の注意義務違反の有無について
一伊藤春樹の関係
(一) 伊藤が死亡するに至る経過
前記第三認定の事実に、医師葛西森夫作成の鑑定書および第三一回公判調書中証人葛西森夫の供述部分を総合すれば、伊藤は昭和四二年四月四日午前七時頃に狐穴小屋を出発し、同日正午頃西朝日岳指導標付近に至るまでは、ほぼ正常な健康状態の下で歩行を続けてきたが、その着衣が細谷・長岡と比較して軽装であつたことおよび御坪付近で雨に濡れたこと、その他発汗等により、吹雪の吹く同指導標付近で休憩している頃から体熱および体力の喪失が著しくなり、同指導標から中岳に向け下降に差しかかつた頃には可成り高度の疲労状態に陥り、更に同日午後三時中岳上り口付近の鞍部で立ち止まつた頃には、体温の下降はさほどではないものの体力の消耗は相当著しく、更に鈴木が被告人達の所へ行つてから同鞍部の雪の上にツエルトザックに入つたまま横臥したのちは、約一〇ないし三〇分間で急速に体温下降を来たし、よつて同日午後六時ないし七時頃、同所において凍死するに至つたものであることが認められる。
(二) 中岳上り口付近の鞍部で、被告人が自ら引き返して伊藤の容態を確かめたうえ伊藤に対し救護のため必要な措置をとるべき注意義務違反の有無
1被告人の行為内容
被告人・細谷・長岡のグループが中岳上り口付近の鞍部に到着し、中岳斜面を少し登りかけた際、被告人は、伊藤・鈴木が被告人・細谷・長岡のグループより約一〇〇メートル位遅れているのを認識したときも、またその後伊藤・鈴木が立ち止まり、鈴木が伊藤と一緒にツエルトザックを被つたのを認識したときも、更にしばらくして鈴木が被告人らの所へ来て、被告人に対し「伊藤がバテて動けなくなつた」と報告をしたときも、そのいずれの時点においても、伊藤がまさか生命を失うような危険状態にあるとは予見せず、自ら伊藤の所に引き返してみることをせずに右ツエルトザック内にいたことは、前記第三認定のとおりである。
2 基準行為違反と言えるか
(1) そこで被告人の右行為(不作為)が注意義務に違反した過失行為と言えるためには、注意深い人ならばその状況のもとでするであろう行為(基準行為)をしなかつたと法的に評価できなければならないので、まずそのことから検討する。
(2) 被告人が中岳上り口付近の鞍部に至るまでの間に有した事実認識で伊藤の身体の異常を窺わせるものは、前記第三において認定した各事実のうち、被告人ら一行は、竜門山で休憩している頃から雨にあい、御坪付近では風雨が強くなつたためポンチョを着用し、西朝日岳指導標付近からは吹雪になつたが、同指導標付近から約一五〇メートル進んだところで被告人が部員らに対し輪かんをはずすよう指示したところ、伊藤はこれに従わず黙つて立つており、被告人が強い調子でもう一度はずすよう指示すると、ようやくこれをはずそうとしたがはずせず、伊藤から依頼された鈴木が代わつてこれをはずしてやつたこと、鈴木から自己の輪かんを受けとつた伊藤は、他の部員らや被告人が輪かんをそれぞれ手に持つたにも拘ず、自分だけそれを自己のキスリングのポケットのバンドをはずして、そこに結びつけたこと、同所から約四〇メートル位歩いた勾配の急な下り坂で伊藤は約三ないし四メートル滑り落ち、尻もちをついたのち直ちに立ち上がれず、被告人から「どうしたんだ」と強い口調で気合をかけられ、ようやく立ち上がつたこと、その後一行は途中で一回一緒に休憩したものの、その頃から伊藤は後を歩く鈴木とともに、前を行く被告人・細谷・長岡のグループから次第に遅れ始め、中岳上り口付近の鞍部に至つた時は、その差は約一〇〇メートル位開いていたこと、同鞍部の中岳斜面を少し登りかけたところで後を振り向き、吹雪の切れ目から伊藤・鈴木が約一〇〇メートル位遅れていることを気づいた被告人らは、そのままツエルトザックを被つて待つことにし、しばらくして被告人が同ザックから顔を出して伊藤・鈴木の来る方向を見ると、伊藤・鈴木は約六〇メートル(その時の感覚では約二〇メートル)手前の所で立ち止まつた後、鈴木が被告人に無断で伊藤と一緒にツエルトザックを被つたのが見えたこと、更にしばらくして鈴木が被告人らの所にやつてきて、被告人に対し「伊藤がバテて動けなくなつた」と報告をしたこと等である。
(3) しかしながら、まず被告人が同鞍部の中岳斜面を少し登りかけたところにおいて伊藤・鈴木は被告人らのグループから約一〇〇メートル位も遅れていることを認識した時点において、伊藤に生命の危険が迫りつつあることを予見せず、そのまま伊藤・鈴木が追いついてくるのを待つことにした行為について考えてみるに、それまで右(2)のとおりの伊藤の身体の異常を窺わせる行動があるにしても、右行動のうち、伊藤が被告人の指示にも拘らずすぐに輪かんをはずそうとしなかつたことは、前記第三のとおり当時伊藤は吹雪の吹きすさぶ中で、ポンチョの帽子等を深く頭にかぶつていたこと等により、また、伊藤が自分で輪かんをはずせなかつたことは、前記第三のとおり、狐穴小屋出発の際同人は上手に輪かんをつけることが出来ず、被告人に直してもらつたことがあることおよび手が冷たくなつて輪かんをはずせないことは、体全体の疲労とは余り関係がないこと等により(なお伊藤はその後自分の手で輪かんをキスリングのポケットをはずし、そこに結びつけている。)更に伊藤が鈴木にはずしてもらつた輪かんを自己のキスリングに結びつけたことは、被告人および他の部員三名が手に輪かんを持つたとしても、登山行動中は輪かんをキスリングのポケットに結びつけることがむしろ普通であること(第一五回公判調書中被告人の供述部分等)により、その後キスリングを背負つたまま足を滑らせて尻もちをついたことは、登山行動中浮石に足をとられて滑り落ちることはよくあること(第三六回公判調書中証人山崎慎弥の供述部分等)により、いずれも伊藤の身体の異常をさほど明確に示すものではないこと、伊藤を含む部員四名は、前記第三のとおり、御坪から西朝日岳指導標に至るまでの間、多くの登山歴を有する被告人をたびたび引き離し、遅れて来る被告人を待つということが何度かあつたほどの健脚ぶりを示していたこと、伊藤が滑つて尻もちをついた後、一行は、同鞍部に至るまでの間一度休憩しているが、その際も伊藤は被告人に身体の異常を訴えることはなかつたこと(第一五回公判調書中被告人の供述部分等)、その当時伊藤と一緒に歩いていた鈴木でさえ、伊藤は単に疲労したにすぎないと感じていたこと(第九回公判調書中鈴木博の供述部分等)、それに何といつても右(2)のとおり伊藤はまだ歩行を続けており、登山行動中において疲労等により歩行が遅くなる者が出ることはごく日常的であること等に照らすと、被告人の前記行為が前記基準行為に違反した行為と言うことは到底出来ないと認めるのが相当である。
(4) またその後被告人が、伊藤・鈴木は被告人らのいる所から約六〇メートル離れた地点で立ち止まり、鈴木が被告人に無断でツエルトザックを取り出し、伊藤と一緒にこれを被つたのを認識した時点において、伊藤の生命に危険が迫りつつあるのを予見せず、そのまま相変らずツエルトザック内で何の懸念も持たずに待つていた行為についても、被告人が同鞍部の中岳斜面を少し登りかけたところにおいて伊藤・鈴木は被告人らのグループより約一〇〇メートル位も遅れていることを認識した時点においてそのまま同人らが追いついてくるのを待つことにしたことは右(3)のとおりに評価すべきであること、当時被告人は伊藤・鈴木が不時露営の態勢に入つた地点は前記第三のとおり自分らのいる所から約二〇メートルの至近距離と感じていたこと、伊藤には、前記第三のとおり、被告人が全幅の信頼を置き本件春山合宿登山のリーダーをつとめていた鈴木が付き添つていたこと等により、長時間同人らから何の連絡もなかつたのならともかく、しばらくの間、何の懸念も抱かずに同人らを待つていたとしても、その行為が前記基準行為に違反した行為と言うことは相当でないと認めるのが相当である。
(5) これに反し、被告人が鈴木から「伊藤がバテて動けなくなつた」と報告を受けた時点においても、伊藤の生命に危険が迫つていることを予見せず、そのまま相変らずツエルトザックに何の懸念も抱かずにいた行為について考えてみると、被告人が伊藤・鈴木は被告人らのいる所から約六〇メートル離れた地点で立ち止まり、鈴木が被告人に無断でツエルトザックを取り出し、伊藤と一緒にこれを被つたのを認識した時点において、そのまま相変らずツエルトザック内で何の懸念も抱かずに同人らを待つていた行為は右(4)のとおりに評価できるとしても、被告人は前記第三のとおり生徒を指導するため同行して登山した経験が何度もあり、冬山春山における生徒の体力・判断力の実態を良く知つていたこと、鈴木の右報告は、前記第三のとおり、雨に濡れ、かしも発汗したうえ相当の時間吹雪の中を歩いてきた伊藤が、それまで無断で不時露営などしたことがないにも拘らず、被告人のいる直前まで来て止まつてしまつたという状況の直後になされたこと、それに何といつても右報告により被告人は、伊藤が動けなくなつたことを明確に認識したこと等に照らせば、報告に来た鈴木が、伊藤は単に疲れたにすぎず、それ以上の異常事態にはなつていないという認識しか持たずに右報告をしたとしても、少くとも被告人には、右報告を受けた時点において、伊藤の容態について懸念を抱いて同人の所に引き返し、然るのち同人の異常を発見して救護の措置を講じる義務(それが法的義務として成立するには後記結果回避可能性が肯定されなければならない。)が生じたと認めるのが相当であり、結局、それをしないで漫然ツエルトザック内にいた被告人の行為は、右基準行為違反ということに帰着する。
(前記三のとおり、被告人はその夜一晩中、凍死を防ぐ等のため細谷・長岡の名を呼び続けていたが、このことは右義務の存在を間接的に根拠づけるものと言えよう。)。
(6) したがつて被告人は、鈴木から「伊藤がバテて動けなくなつた」と報告を受けた時点において、そしてその時点においてのみ、伊藤の所に引き返し同人の異常を発見して救護措置をとる義務(それが法的義務として成立するためには、前述のとおり後記結果回避可能性が肯定されなければならない。)が生じ、かつそれに違反したと認めるのが相当である。
3結果回避可能性があつたか
(1) 右2のとおり、被告人には鈴木から右報告を受けた時点において、伊藤の所に引き返し同人の異常を発見して救護措置を講じる義務が生じたといえるが、それが法的義務として肯認されるためには、右義務を履行することにより伊藤の死という結果を回避することができたことが必要である。
(2) 右時点における結果回避可能性を肯定したほとんど唯一の証拠として、医師葛西森夫作成の鑑定書および第三一回公判調書中同人の供述部分(以上単に葛西鑑定ということがある)があり、同証拠は「伊藤は鈴木が戻つた時に刺激を与えなくても目を開けて鈴木を見ており、その後三〇分ないし一時間位は頬をたたくと目を開けていた」という事実認識を前提とし、被告人が「伊藤が中岳鞍部に到着してから長くみて三〇分以内」に、「まず伊藤が入つているツエルトザック内に風が入らないようにしたうえ、ホエブスに点火して同ザック内を暖め、次いで伊藤の着衣を乾いたものに替えてやつてシュラフザック(寝袋)に収容し、出来ればお湯を沸かしてミルク等を飲ませること」の相当部分(同証拠は三〇分以内にどこまでの処置を行えばよいかを明言していないが、同証拠全体の趣旨からすれば、右のように解するのが相当である)を行えば、伊藤の命は十中八・九救えたはずであるというのである。
(3) しかしながら、まず葛西鑑定の前提たる「伊藤は鈴木が戻つた時に刺激を与えなくとも目を開けて鈴木を見ており、その後三〇分ないし一時間位は頬をたたくと目を開けていた」という事実認識は、右事実にそう証拠として鈴木の検察官に対する昭和四三年七月一四日日付供述調書があるものの、同調書より約五ケ月早く作成された鈴木の検察官に対する同年二月一六日付供述調書に「……私が伊藤のところに……戻つて来て見ますと、伊藤はツエルトテントを被つた儘キスリングの置いてあるところから約三メートルか四メートル位西朝日の方へ移動しておりました。それで私は伊藤の入つているツエルトテントの中に入りました。すると伊藤はねむつたようなかつこうで横になり、目をつぶつておりました。それで私はこのようなところでねむれば死んでしまうということは知つていましたので、危いなあと一瞬思いました……」と記載されていること、および第六回、第九回公判調書中証人鈴木博の供述部分等よりして、にわかに措置しがたく、鈴木が戻つてきたとき伊藤は「眠つたような格好で横になり、目をつぶつていて意識がわからないような状態」にあつた疑いが強いので、結局、被告人が鈴木とともに伊藤の所に来て葛西鑑定の言う諸々の救護措置を行つたとしても、果して伊藤の命が救えたかどうかは極めて疑わしいと言わなければならない。
また救護措置の内容の一つたる「伊藤が入つているツエルトザックに風が入らないようにしたうえ、ホエブスに点火して同ザック内を暖ためること」は、当時は前記第三のとおり吹雪であつたので、外でホエブスに点火することは出来なかつたこと、およびもしツエルトザック内で点火するならば、同ザック(昭和四四年押第三四号の四)は検察官のいう綿製品でなくビニロン製である(司法警察員作成の昭和四三年三月一八日付実況見分調書参照)から、ホエブスの炎が少しでも触れれば燃えることは十分考えられること(第三一回公判調書中証人葛西森夫の供述部分もその危険性があることを認める。)等よりして、果して可能であつたか疑問である。
また伊藤が入つているツエルトザック内で被告人がそのキスリング内に携行していた固形燃料を使用することも、刺激性の強いガスが発生する(証人池田昭二の当公判廷における供述、第二八回公判調書中鈴木博の供述部分)ので果して可能であつたか疑問である。
また「ツエルトザック内で伊藤の着物を乾いたものに替えてやること」も、それに二人の人手を要することおよびツエルトザックの広さ等よりして、果して可能であつたか多大の疑問が残る(第九回公判調書中証人鈴木博の供述部分は右が不可能である旨述べている。)。
仮に右各措置が可能であつたとしても、前記葛西鑑定によれば右各措置、伊藤をシュラーフズックに収容することおよびお湯を沸かしてミルク等を飲ませること等の相当部分を、伊藤が中岳鞍部に到着してから長くみて三〇分以内に行わなければならないのであるが、同鑑定によれば、鈴木が被告人の所へ行つて戻つてくるには約一五分間かかつているのであるから、鈴木と一緒に来た被告人が右措置をとるに残された時間は約一五分間である。しかしその間にまず二つに分れたパーティが、被告人又は鈴木が再び細谷・長岡のいる所へ連絡に行つて同人らを連れてくる等して、一地点に合流し(それに要する時間は、鈴木が被告人の所へ行つて戻つてくる時間が一五分位であつたことに照らし、同程度を要すると認められる。)、それから全員で既に意識を失い又は失いつつある伊藤を、標高のより高い被告人らの不時露営地点までシュラーフザック等に入れて運んだうえ、ツエルトザックを二つ張るか、あるいは、伊藤が横臥している地点に全装備を集めてツエルトザックを二つ張るかし、次いでキスリング内から取り出したホエブスをツエルトザック内で点火して同ザック内を暖ため、更に意識の消失しつつある伊藤の着衣を二人が狭いツエルトザック内で乾いたものに替えてやり、そのうえ伊藤をシュラーフザックに収容し、出来れば雪を融かしてお湯を沸かし、それを意識の消失しつつある同人に飲ませる等の措置の相当部分を完了することは、社会通念上、その不可能なこと明らかである。
なお、検察官は伊藤の救護施設として、雪洞を掘るか、又は風をさえぎる目的で雪の斜面を掘つてくぼみを作り、そこにツエルトザックを張ることの有効性、およびその可能であることを力説するが、前示のとおり、被告人が鈴木から報告を受けた時点においては、伊藤に対しいかなる応急的な救護措置を施しても、同人の死の結果を回避することは不可能であつたのであるから、その後において右のような救護施設を作出することが無意味なことは自ずから明らかである。
(4) したがつて、被告人が鈴木から伊藤が疲れて動けない旨の報告を受けた時点における結果回避可能性をいうほとんど唯一の証拠たる葛西鑑定は、前提たる事実認識、具体的にとりうる手段の物理的・時間的可能性等の点で非現実的と言うべきであり、採用しがたい。
4以上を総合すれば、結局、被告人には、中岳上り口付近の鞍部で自ら引き返して伊藤の容態を確かめたうえ伊藤に対し救護のため必要な措置をとるべき注意義務は、道義的にはともかく、法的に存在したという証拠がないということに帰するから、被告人に右注意義務に違反した行為があつたとは言えないというべきである。
(三) 西朝日岳指導標付近で伊藤が滑つて尻もちをついた時点において、伊藤の健康状態を確めて不時露営し、採暖摂食等の措置をとるべき注意義務違反の有無
被告人ら一行が西朝日岳指導標を出発後、伊藤が輪かんをはずすようにとの被告人の指示にすぐ従わなかつたり、輪かんを自分ではずせなかつたり、はずした輪かんを他の部員らおよび被告人が手に持つたにも拘らず、自分のキスリングを降ろしてこれに右輪かんを結びつけたり、更に歩行中滑つて尻もちをついたのちようやく立ち上がつたこと等を被告人が認識したときも、被告人は伊藤に生命の危険が迫りつつあることを予見せず、そのまま前進を続けたことは前記第三認定のとおりである。
しかしながら、伊藤の右各行為が伊藤の身体の異常をさほど明確に示すものでないこと、および伊藤を含む部員四名は御坪から西朝日岳指導標に至るまでの間、多くの登山経歴を有する被告人をたびたび引き離し、遅れてくる被告人を待つということが何度かあつたほどの健脚ぶりを示していたことは前記2(3)のとおりであり、また前記第三のとおり伊藤が滑つて尻もちをついたのは同指導標付近から約一九〇メートル位進んだにすぎない地点であるから、被告人が伊藤の滑つたのを認識した時点においても、被告人に伊藤の生命に危険が迫りつつあることを予見して、直ちに伊藤の健康状態を確かめたうえ全員不時露営し、採暖摂食等の措置をとるべき法的義務があるとは言えないと認めるのが相当であり、結局、被告人が相変わず前進を続けたことが右注意義務違反になるとはいえないというべきである。
なお検察官は、御坪西朝日岳指導標間で伊藤が氷砂糖を直ちに配らなかつたことを以て伊藤の身体異常を示す徴候と指摘するが、それは前記第三のとおり伊藤を含む部員四名が被告人をしばしば引き離していた時分のことであるから、伊藤の身体異常を示す徴候とは到底いえないと認めるのが相当である。
(四) 御坪付近で適当な場所に不時露営して摂食採暖等の臨機の措置をとるべき注意義務違反の有無
被告人ら一行が、午後からは風雨が強くなり、気温も下がつてくる旨の天気予報を聞いたのち、午前七時頃狐穴小屋を出発し、同日午前一〇時頃には竜門山に到着し、同日午前一〇時二〇分頃同所を出発する頃にはパラパラと雨が降り出し、それから約二〇〇ないし三〇〇メートル位進んだところでは雨のため西朝日岳方面が見えなくなり、更に進んだ御坪付近では、雨は次第に大降りになつてゆき、風も強くなつてきたので、ポンチョを着用して、そのまま大朝日小屋方面に向け前進を続けたことは前記第三認定のとおりである。
しかしながら、前記第三のとおりそれまで伊藤を含む被告人ら一行には特に異常を訴えるものもなく普通に進行を続けてきており、しかも御坪付近における状況は単に雨が強くなつてきたというにすぎないから、右時点において被告人に、伊藤の生命に危険が起こることを予見して、適当な場所に不時露営して摂食採暖等の臨機の措置をとるべき法的義務が発生したとは到底いえないと認めるのが相当であり、結局、相変らず前進を続けたことが右注意義務違反になるとはいえないというべきである。
(五) 御坪付近で直ちに前進を中止して日暮沢小屋に避難すべき注意義務違反の有無
被告人ら一行が狐穴小屋を出発して御坪付近に至るまでの経過およびその後も前進を続けたことは、右(四)記載のとおりである。
ところで、御坪付近で被告人は、直ちに前進を中止して日暮沢小屋に避難する義務があり、したがつてそのまま大朝日小屋に向け前進を続けたことが右義務違反になるといえるためには、御坪から大朝日小屋に向け進むよりも、日暮沢小屋に向け下山した方が、より安全であつたといえなければならないので、以下右両コースを比較検討することとする。
<証拠>を総合すれば、御坪から日暮沢小屋までの距離は約10.3キロメートルもあるのに御坪から大朝日小屋までの距離は約4.2キロメートルであるにすぎないこと、御坪の標高は約一七〇〇メートル、日暮沢小屋の標高は約六〇〇メートル(八二六メートルは日暮沢小屋から少し上の所である)、大朝日小屋の標高は約一八〇〇メートルであるので、標高差は御坪から日暮沢小屋までは約一一〇〇メートルで、御坪から大朝日小屋までは約一〇〇メートルであること、御坪から日暮沢小屋に下るには、途中竜門山(標高一六五七メートル)、ユウフン山(同一五六〇メートル)、清太岩山(同一四六四メートル)、コロビツ(同約一〇四〇メートル)を通過しなければならず、かつ本件春山合宿登山当時のような積雪期には、竜門山の頂付近に落差二〇ないし三〇メートルにも及ぶ巨大な雪屁が、また、竜門山からユウフン山・清太岩山に至る間の痩せ尾根にナイフの刃を上に向けたようなナイフリッジおよび巨大なクレバスを生む雪屁が各生じ、いずれも吹雪の中(御坪付近では雨であつたが、前記第三のとおり、その後みぞれとなり西朝日岳指導標付近で間もなく雪に変わつたのであるから、御坪から竜門山に戻る頃には雪に変つていたと推測される。)で通過するには極めて危険であるのに対し、御坪から大朝日小屋に至るには、途中西朝日岳(標高一八一三メートル)、中岳(同一八〇〇メートル)を通過しなければならないものの、その間には進行に特に支障となるような箇所は存在しないこと、本件登山行動当時、風は西又は北西の方向から吹いていたので、御坪から竜門山を経て日暮沢小屋に下る場合と御坪から大朝日小屋に向かう場合とで、風による影響につき特に差異は存しないことが認められ、以上の諸事実を総合すれば、高度一〇〇メートル下がると気温が0.6度上がるという経験則があるにしても、登山行動においてどちらのコースが精神的・肉体的に有利かは、単に気温のみでなく、距離・標高差・地形・風の方向等をも総合して判断しなければならないから、本件の場合御坪から大朝日小屋に向け進むよりも日暮沢小屋に向け進んだ方がより安全であつたとは到底いえないと認めるのが相当であり、またそうだとすれば、被告人が竜門山において部員らに対し避難路としての日暮沢小屋に下るコースを説明した意味も、被告人および証人鈴木博(リーダー)が述べているように、本件春山合宿登山において、場合によれば避難路として利用するというのではなく、一般に避難路といわれている日暮沢小屋に下るコースについて説明をしたという以上の意味はなかつたと認めるのが相当である。
したがつて、被告人には、御坪付近で直ちに前進を中止して日暮沢小屋に避難する法的義務があつたとはいえず、そのまま前進を続けたことが右義務に違反した行為にあたるとはいえないというべきである。
二 細谷光喜・長岡秀典の関係
(一) 細谷・長岡が死亡するに至る経過
前記第三認定の事実に医師葛西森夫作成の鑑定書および第三一回公判調書中証人葛西森夫の供述部分を総合すれば、右両名は、同月五日午前六時頃中岳上り口付近の鞍部を出発し、同日午前七時頃中岳指導標付近で被告人・鈴木と別れるまでは、多少は疲労していたもののほぼ正常な健康状態であり、その後何らかの経過(その経過については遂に全く不明である。)により、同日午前九時頃から午後三時頃までの間に、同指導標付近で相次いで凍死したことが認められる。
なお、検察官は、伊藤の凍死という異常な事態に生まれて初めて遭遇したため極度の興奮状態ないし異常な精神状態に陥つていた右両名が、被告人らから取り残されたため、空腹をかかえて猛烈な地吹雪の吹く中岳中腹の雪原を、大朝日小屋や被告人らの足跡を求めてさまよい歩き、遂にはこれら疲労と寒気により行き倒れとなつて凍死したと主張しているのであるが、右主張は何ら証拠に基づかないばかりか、前記第三認定の事実、司法警察員作成の写真撮影報告書および同人作成の「現場写真作成報告について」と題する書面によれば、右両名は被告人らと別れた同指導標のすぐ近くで、しかも長岡はシュラーフザックに入つたままで死亡していたことが認められるから、検察官のいうように右両名が大朝日小屋又は被告人らの足跡を求めてさまよい歩いたとは到底いえないと認めるのが相当である。
(二) 中岳指導標付近で行進中細谷、長岡と離れず、常時同人らの健康状態を観察し、その体調に応じ、臨機休養採暖摂食をさせ、服装・装備の調整をする等の措置をとるべき注意義務違反の有無
1被告人の行為
(1) 公訴事実に記載されている被告人の過失行為は、「被告人は昭和四二年四月五日午前六時頃に中岳上り口付近の鞍部を出発し、中岳指導標を通つて大朝日小屋に向かつたが、その間、追尾した細谷・長岡が次第に歩行困難となつて後方に取り残されていつたのに同人らの動静を全く顧慮せず、漫然前進を続けたため、両名をして……追従不能ならしめた」というのである。
(2) 右公訴事実にそう証拠としては鈴木博の検察官に対する昭和四三年三月四日付および同年七月一四日付各供述調書があるが、同調書は、当時鈴木は後記のとおり歯をガチガチさせ、体はこきざみにふるえ、顔色は土黄色に近く、腰は痛くて真直ぐに伸ばすことが出来ない等の極めて疲労した状態であつて、しかもリーダーとして強い責任感を有する同人がキスリングを背負えずこれを置いたまま大朝日小屋に向け出発した程であつたのであるから、中岳斜面を登る際も、その後中岳中腹をトラバースする際も、前を行く被告人についてゆくのに精一杯であつて、その他のことを観察する精神的余裕はほとんどなかつたと推測されること、第六回公判調書中証人鈴木博の供述部分にも「大朝日小屋に着くまでの間に、中岳指導標付近で先生と細谷君と長岡君が食事をするというような話をしたことはあるか」との問いに対し、同人が「歩くのに夢中でしたから覚えてないです」旨答えた記載があること、被告人は、同人が四月五日の朝、鈴木・細谷・長岡の部員三名とともに中岳上り口付近の鞍部を大朝日小屋に向け出発し、約四〇分位かかつて中岳指導標付近に至つたところ、細谷・長岡が被告人に対し「腹が空いたので飯を食べて行つてよいか」旨申し出たので、被告人は、歯をガチガチさせて後ろにいる鈴木を、その儘細谷・長岡の食事が終るまで待たせておくわけにはゆかず、「食事が終わつたらついてこい、カッティングしておくからすぐついてこい」と言い残して、鈴木だけをつれて同小屋方面に向けまた前進を続けた旨を、捜査段階から公判廷に至るまで一貫して供述していること等に照らし、にわかに措置し難く、他に右事実を認めるに足る証拠はない。
(3) 以上によれば、被告人の過失行為たる「被告人は細谷・長岡が次第に後方に取り残されてゆくのにこれを顧みず、漫然前進を続けた」との部分の証明がなかつたことになり、したがつてこの点に関する犯罪の証明もなかつたことに帰着する。
2この他の過失の有無
(1) なお、被告人の当公判廷における供述、第一六回公判調書中被告人の供述部分、被告人の検察官に対する昭和四三年四月一〇日付・同月一一日付・同月一三日付、司法警察員に対する同四二年六月一〇日付各供述調書によれば、前記1(2)のとおり、被告人ら一行が中岳指導標付近に着いたとき、細谷・長岡が被告人に対し「腹が空いたので飯を食べて行つてよいか」旨申し出たので、被告人はこれを許し、「食事が終わつたらついてこい、カッティングしておくからすぐついてこい」等と言い残して、鈴木だけをつれて大朝日小屋方面に向け、カッティングしながら前進を続けたことが認められるが、右行為が果して過失行為と言えるかにつき、念のため検討することとする。
(2) ところで、被告人が「飯を食べて行きたい」という細谷・長岡の申出を拒否し、無理にでも両名を大朝日小屋までつれて行けば、当時後記のように半病人の状態であつた鈴木でさえも同小屋まで辿りつけ、その生命を継持しえたこと等よりして、右両名の命を救うことが出来た(結果回避可能)ことは明らかであるが、右(1)掲記の各証拠によれば、被告人が細谷・長岡の申し出を許したのは、当時の天候が、曇つてはいたものの小朝日岳・西朝日岳が見えるほど視界が良く、雨や雪は降つておらず、しかも風は時折り地吹雪を舞い上がらせる程度であつたこと、中岳指導標付近から大朝日小屋までのコースはさほど難かしくなく、その距離も1.2キロメートル位でわずかであること、被告人は登山行動における判断力および耐久力に優れた細谷に対し、前記第三のとおり、前日右コースを口頭で具体的に説明しておいたこと、および鈴木は、被告人が同日朝中岳上り口付近の鞍部で顔を合わせたとき、言葉が良く聞きとれず、疲労のため歯をガチガチさせ、体は小きざみにふるえ、顔色は土黄色に近く、腰は痛くて真直ぐに伸ばすことの出来ない等極めて疲労した状態を呈しており、同鞍部から出発する際もキスリングを背負うことが出来なかつた等のため、同人を一刻も早く大朝日小屋に収容しなければならないと考えたことによるものであり、かつ、右各証拠および第六回ないし第九回公判調書中証人鈴木博の供述部分、鈴木博の検察官に対する昭和四三年二月一六日付、同年三月四日付、同年七月一四日付各供述調書、医師葛西森夫作成の鑑定書、第三一回公判調書中同人の供述部分を総合すれば、右天候状態・大朝日小屋に至るコースの内容・細谷に対するコースの説明・鈴木の身体の状況等は十分その存在が肯認できるから、それに高校生ともなればその行動能力は相当程度成人に近いといえること等に鑑み、右のような考えのもとに細谷・長岡の右申し出を許し、鈴木を一刻も早く大朝日小屋に収容するため、カッティングしながら前進を続けた被告人の行為は、法的にはまことにやむをえない行為と認めるのが相当であり、結局、右行為を以て過失行為と論ずることは出来ないというべきである。
3したがつて、いずれの点からしても、中岳指導標付近において被告人に過失行為があつたとはいえないというべきである。
(三) 御坪付近で適当な場所に不時露営して摂食採暖等臨機の措置をとるべき注意義務違反および同付近で直ちに前進を中止して日暮沢小屋に避難する注意義務違反の有無
細谷・長岡に対しても右各注意義務違反が成立しないことは、前記一(四)(五)のとおりである。
第六むすび
以上の次第で、本件春山合宿登山中の被告人の行為に刑法二一一条前段にいう業務性はこれを認めることが出来るものの、注意義務違反行為についてはいずれもこれを認めるに足りないから、本件各公訴事実はいずれも犯罪の証明がないことになり、刑事訴訟法三三六条により被告人に対し無罪の言渡をする。
よつて主文のとおり判決する。
(阿部哲太郎 喜多村治雄 中野哲弘)